こんにちは!
とーかいりん男爵こと東海林大介です!
今回は母に叱られた時の思い出について書いてみます。
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自分が親になって
子どもを親に従わせようとか、言うとおりにさせようとか、なるべくそんな風にはしたくなかったんですよね。
特に、怒りを表現することでコントロールしようとするなど、最低だと思っていました。
小さいだけで、生まれた順番が後なだけで、人間としては対等。
そんな風にやっていこうと思っていました。
大人だからって偉いわけではありません。
たかだか20年とか先に生まれて、経験していることが多いからといって、親の価値観でものごとを押し付けたり、こういうものだ!と決めつけてしまうことは、子どもの可能性を狭める以外のなにものでもないと思います。
究極的には、子どもが興味を持つものは、なんでも挑戦させてあげたいし、なんでもOKして、好きなようにさせるのが、その子の可能性を極限まで伸ばすことにつながるのではないか、なんて思ったりします。
ただもちろん、命にかかわることとか、目が見えなくなっちゃうとか、そういう緊急事態が予想されることだけは、先回りして止めたりすることは必要だと思います。
親は命のみなもと
親が偉いのは、先に生まれたからではなく、自分の命のみなもとだから、という考え方を知って、「そのとおりだ!」と深く納得したのは、だいぶ前のこと。
だから、親に対しては、そう思っています。
でも、それを親の側から、子どもに「偉いんだぞ」とすることは、まったく違うことだと思っています。
現実は理想通りではない
色々な理想はあったんですけど、息子との関係において、思い通りにならなかったり、理想どおりにならないことなんてたくさんありました。
今だってあります。
その結果、大人気ない態度をとってしまったり、怒ってしまったりなんてこともよくあり、その度に自己嫌悪。
同じことを友人にするかと考えてみれば、しないようなことをしてしまったり。
子どもだからと甘えての怒りだったり、態度だったりします。
それはいけないことだと思うんですよね。
パンチプレゼント
そんな時、ふと、とーかいりんが少年の頃に、お母さんに怒られた時のことを思い出したんです。
うちのお母さんは、いつでもどこでも、笑顔でした。
ママ友と一緒にいる時だと、急によそゆきの態度に変わる、ということもあまりなかったと思います。
みんなの前で、ボクが怒られるようなことをしても、ニコニコしながら「パンチプレゼントですよ」って言ってきました。
それでいて、母の主張は常に丁寧語。
「◯◯◯◯ですよ」という具合いです。
「ダメ!!!」って怒るよりもよほど、ダメということも理解できて、自分を否定された印象にもならず、場の空気も壊していなかったなぁ、なんて思うわけです。
ボクだったら、どうかな?
今、どうしているかな?
なんて考えると、ダメなことをしている息子に向かって、笑顔で諌められているかな?なんて思うわけで・・・
いや、「ダメなこと」をしているという発想自体が大人都合なわけで。
そんな風に考えてしまうことも含めて・・・
できていないかもなぁ、って思ったんですよね。
改めて、母はそういう意味でも偉大だったなぁなんて、自分が子どもと向き合っていく中で、じんわりと感じた41歳の夏でした。
これからは、もっと息子に寄り添って、尊重しようって、改めて思った懐かしい記憶について書いてみました。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。